君の罪の子 我も罪の子

第4回 愛・理性・勇気〜与謝野晶子伝説 その4

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:杉並なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

運命の出会い

蔵三さん、長〜い夏休みは楽しかったですか? おかげさまで読者の方から「いつ更新するんだ」っていう苦情がたくさん届いてますよ。


嫌味なヤツだなぁ。夏休みじゃなくてバカンスといって欲しいね。バカンスと。今年みたいに異様に暑い夏はさぁ、仕事なんかしたって効率が上がらないし、電気だって使うなって言われてんだから、家でぼ〜っとしてりゃいいんだよ。そうするとじんわりと汗かくだろ。そしたら、夕方に冷蔵庫あけてキンキンに冷えたビールをグィ〜っと飲むわけだよ。おい、ビールないか?

何バカ言ってんですか。暑くたってみんな休まずに働いているんですよ。それでなくたって不況で大変なんですからね。


あくせくしてやだね〜。夏なんてものはさぁ、放っておいたって自然と秋になって涼しくなるもんだよ。ってなわけで一首詠むか。「露しげき 葎(むぐら)が宿の琴の音に 秋を添へたる鈴虫のこえ」

また〜、どうせ誰かの作った歌でしょ。蔵三さんにそんなセンスないもの。



言ってくれるねぇ。まぁ、その通りだけど。実はこの歌は晶子が投稿した最初の歌だと言われているんだ。


前回言ってた“晶子さんの人生を変えるきっかけになった歌”って、それのことなのね。



晶子が17歳の時に「文芸倶楽部」に投稿した歌が掲載された。これ以降、晶子は自己表現に目覚めるんだな。


確かに、自分の作品が活字になるって快感よね。



翌年には短歌の同人会に入って本格的に歌を詠み始めるんだけど、これは1年足らずで退会してしまう。旧態然とした「花鳥風月」の世界に、晶子は馴染めなかったようだね。

確かに、さっきの歌もよくできてるとは思うけど、情熱とか個性とか、そういう意味では全然晶子さんらしくないものね。


そうした晶子の新しい表現への渇望が、ある出会いによって一気に満たされる。それは読売新聞に載った一首だった。「春あさき道灌山の一つ茶屋に 餅食う書生袴つけたり」。作者は与謝野鉄幹。

なんかフツーの言葉を並べただけみたいなのに、結構鮮やかに情景が浮かんでくるわね。


当時、ロマン主義とか自然主義といった文学界のムーブメントがあった。詩や小説では島崎藤村、俳句では正岡子規のように、装飾的な言葉を並べるより普段遣いの言葉で、高邁な思想より率直な感性を表現しようという動きね。短歌の世界でも落合直文がこうした革新運動を展開していて、鉄幹はその門人だった。

だからわかりやすいのね。ナットク。



これを読んだ晶子は「我が意を得たり」と思ったんだな。後年『昌子歌話』にこう綴っている。「因習思想の破壊者、民衆のために歌を開放するもの、個性の発揚」とね。


それですぐに鉄幹さんに弟子入りできたの?



堺の大店のお嬢さんで、まだ20歳だよ。今みたいにそんなに自由がきくわけじゃない。晶子は鉄幹の表現に少しでも近づこうと、翌年、同じ町内の河合酔茗、河野鉄南らが結成した関西青年文学会に入会して、短歌ではなく短詩を作り始める。伝統の殻に閉じこもった短歌より、短詩に表現の自由を感じたのかもね。

でも、若い女の子が男性中心の文学サークルに入るのって、結構勇気がいったんじゃないかな。


だからもっぱら先に入会していた弟を通じて交信していたようだね。特に、他の男性とは違って、女性だからといって区別せずに扱ってくれる鉄南に対して、全幅の信頼を置いていたようだね。それは淡い恋心のようなものだったかもしれないけど…。

晶子さんらしいわね。手紙のやりとりとかしてたんでしょうね。



結構情熱的な文面が29通あったらしいからね。中には志を持って上京していく仲間を見送る度に「女の身では望みようもございません」と悔しさをにじます手紙もあって、歌人として羽ばたけない晶子の心情がよくわかる。

当時の女の人って大変だったのね。



しかし、晶子の恋の対象はすぐに変わる。二人はまるで赤い糸で繋がっていたかのように自然に引き寄せられるんだ。鉄幹は短歌雑誌「明星」を創刊して、有望な新人を捜していた。そこで同人誌に掲載されていた晶子に着目する。そして鉄幹は鉄南と幼友達でもあったんだ。晶子と鉄幹が出会うのは時間の問題だったんだよ。

←晶子の歌が掲載された同人誌「よしあし草」

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