君の罪の子 我も罪の子

第5回 愛・理性・勇気〜与謝野晶子の伝説 その5

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:杉並なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

運命の出会い〜その2

もう夏も終わりですね。しかし、本当に世の中に運命の出会いなんてあるのかなぁ…。



そんな事を言っているところを見ると、今年の夏も収穫は無かったようだな。まぁ、焦ることはないよ。洗濯は全自動、掃除はロボット、買い物はネット宅配で、ワタシのように独身のオッサンでも困ることはない世の中だ。

それはそうなんだけど、一生一人っていうのも寂しいでしょ。でもねぇ、まわりの男子がなんだか頼りなくて。たまにいいなって思うと結婚してたりして…。


ブランド品は中古市場でも値崩れしないってことだな。新品でも売れない物は売れないし、売れないものは何かしら原因がある。結婚にも市場原理が働いているということかな。

あら、じゃあ蔵三さんがいまだに売れないのはどうして?



ワタシの場合はねぇ、売れないんじゃなくて売らないの。そもそも商品じゃないから値札もぶら下げないの。わかった? ワタシのことより、キミが売れない理由を考えなさいよ。要はさぁ、勘違いした高〜い値札をぶら下げてるから誰も買わないんだよ。

失礼ね。ワタシは絶対に安売りはしません。そんなことより、早く本題に入ったら?



はいな〜。今回も絶妙な“マクラ”を有り難うさん。晶子が会う前から秘かに胸をときめかせていた鉄幹こと与謝野寛(ひろし)には、実は妻子持ちだった。しかもかなり問題アリのね。

女って、問題のある男に結構のめり込んだりするのよね。



特に晶子は男を知らないお嬢さん育ちだったからね。寛は明治6年(1837)、京都の僧侶の家に生まれた。明治22年(1889)に兄が経営していた山口県徳山市(現周南市)の徳山女学校で国語教師になるんだけど、教え子の浅田信子(さだこ)と関係を持ってしまって4年で退職。

明治時代に、しかも地方の学校で生徒とデキちゃうっていうのは、相当スキャンダラスだったでしょうね。


信子の親の反対もあって別れを余儀なくされ、学校を辞めさせられた寛は明治25年には京都に帰って、義兄と一緒に間もなく上京。縁あって短歌革新運動の先頭に立っていた落合直文に拾われる。この時まだ20歳だ。

10代でずいぶん派手にやっちゃったのね〜。まぁ、生徒とあんまり歳も違わないから無理もないけど。


しかも、お寺の息子だからねぇ。寛も寛の兄弟も、早くから他家に養子に出されているから、お寺と言っても裕福な家ではなかった。だから寛は大学にも行けなかった。学歴もコネもない、まさに徒手空拳で、あるのは好きな短歌への情熱だけ。最初は義兄の家に居候しようとするんだけど、義兄があまりに貧乏だったので転居する。

頼る家もなくて、寛さんは絶体絶命だったのね。



だから、そんな時に憧れの落合直文の門下生になれたことは、寛にとって最大の幸運だったわけ。


でも、どうして二人は知り合ったの?



それがまた偶然というか、寛が頼み込んで安く借りた駒込吉祥寺内の寄宿舎が、落合直文宅の向かいにあったんだ。寛は最初から直文に弟子入りするつもりでここを借りたのかもしれないけど、この時のエピソードを寛はこんな風に詠んでいる。「雪の夜に蒲団も無くて我が寝るを 荒き板戸ゆ師の見ましけむ」

寒い中せんべい布団で寝ている可哀想な若者をたまたま見かけちゃったわけだ。



直文が向かいのお寺、つまり駒込吉祥寺の境内を散歩しているときにね。寛は一日一個の焼き芋を食べて飢えをしのいでいたらしい。その後寛が直文の家を訪ねた時に、直文は書生としてここで暮らすようにと勧める。

優しい先生でよかったわね〜。



それから寛は心機一転、短歌の道に邁進する。直文が明治26年(1893)に「淺香社」という結社を起こして新たな国文学運動を始めると、寛は直文の弟子として、森鴎外を始め大町桂月、尾上紫舟、金子薫園、久保猪之吉、さらには新進気鋭の俳人、正岡子規らと交流を深め、新時代の詩歌を模索し始めるんだ。

その頃にはもう歌人として有名になっていたの?



その年に創刊された「二六新報」の記者として生計を立てながら、同紙に詩や歌を掲載したり、宮中御所派批判を書いて気を吐いた。明治27年(1894)に日清戦争が始まって、日本が朝鮮に影響力を持つようになると、翌年寛は二六新報を辞め、直文の弟、鮎貝槐園の招きで朝鮮に渡り、日本語教師になる。

どうしてまた朝鮮に行ったのかしら?



文学活動の資金作りに、朝鮮人参で一儲けしようとしたとか、政商として暗躍したとかいろんな説があるけど、よくわからない。でも、最初の渡朝では、現地でクーデターが起こって王妃暗殺計画の首謀者として疑われ、たまたま腸チフスで入院していたから疑いは晴れるんだけど、それがきっかけで帰国している。

結構若いときから波瀾万丈なのね。



明治29年には明治書院編集部、跡見女学校の国文科教師と職を変えながら詩集を出版。翌明治30年に再度朝鮮に渡った時に作ったのが有名な『人を恋ふる歌』だ。そして帰国した明治31年に父が死去、寛は与謝野家を継ぐことになり、寛は晴れてかつての恋人、浅田信子を迎えに行く。二人が離ればなれになって7年目の夏だった。

←鉄幹の師であり恩人でもあった歌人・落合直文

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