君の罪の子 我も罪の子

第7回 愛・理性・勇気〜与謝野晶子の伝説 その7

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:杉並なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

晶子、決意の上京

その後、晶子さんと寛さんはどうなったの?



明治34年1月に寛が京都を訪れた際、晶子と粟田山で密通していたという説がある。その根拠になっっている歌が「神にそむき ふたたびここに 君と見ぬ わかれのわかれ さ云へ乱れじ」「みだれ髪を 京の島田に かへし朝 ふしていませの 君ゆり起こす」「君さらば 粟田の春の ふた夜妻 またの世までは忘れゐたまへ」

うわ〜、いかにも「情事のあと」っていう感じね。



一方で、この時はまだ男女の関係ではなかったという説もある。まぁ、いずれにしても晶子から寛に宛てた手紙はどんどん増えていった。晶子にも親の勧める縁談があったりして、多少の焦りもあったんじゃないかな。

でも、寛さんには瀧野さんがいるじゃない。



瀧野は、もはや隠しようのない寛と晶子の関係を知って、離縁する決意を固める。実はその意志を晶子宛の手紙にしたためていて、それに対して「何も 何も ゆるし給え」という晶子からの謝罪と御礼の手紙も返信されているんだ。

昔の女性って、そういうところが潔いというか、凄いわよねぇ。



そんなわけで、寛の不倫問題は一応解決するんだけど、当の寛はそんなことに構っていられる状況ではなかった。前年の明治33年11月に、人気も絶頂期に入った『明星八号』が以前よりもボリュームアップして、豪華な装丁で発売されるんだけど、その装丁が問題になった。当時としては斬新なアール・ヌーボー風の裸婦が描かれていたんだけど、この絵がイカンとクレームが付いたんだ。

一般の男性誌でヘアヌードが当たり前の現代にはありえない話よね。



クレームをつけたのは内務大臣で男爵の末松謙澄。直ちに明星は発禁処分となって、一転、寛は苦境に陥る。しかも、それに追い打ちをかけるようにして起こったのが「文壇照魔鏡事件」だ。

何それ? ずいぶんいかめしい名前だけど。



明治34年3月に、寛を徹底的に誹謗中傷する本が発行されるんだ。しかも発行所も著者も偽名。いわゆる「怪文書」の類なんだけど、内容は鉄幹は妻を売り、処女を狂わせ、強姦魔で殺人者で泥棒で詐欺師で…。

あははは。いくら何でもそこまで言うかって感じね。



しかし、寛の女性関係や金銭問題、朝鮮での活動とか、書いたのはどう見ても内部の人間としか思えない内容だったから、寛は犯人はライバル誌の関係者と見て、裁判にまでなるんだけど、結局は犯人不明のまま徒労に終わる。

相変わらずトラブルに巻き込まれやすいのね。寛さん。



このスキャンダルが与えたダメージは大きかった。『明星』の売れ行きが落ち込んで資金繰りに窮した寛は家財道具まで売り払って急場をしのいでいた。そんな折、瀧野が息子の萃(つとむ)を連れて実家に帰っていった。失意の鉄幹は、当時まだ田畑の広がる田舎だった渋谷に引っ越して、「新詩社」の看板を掲げ、再起を誓う。

トラブルが多いぶん、逆境に強いということだけは褒められるわね。



京都での逢瀬以来、寛は晶子の上京を促していたフシがあるんだけど、破産状態だし、故郷で肩身の狭い思いをしていた瀧野母子が逃げるように上京してきたりして、なかなか機会をつかめずにいた。この間、晶子の葛藤は凄まじいものだったと思うよ。

そうよね。家出同然で、ど〜しようもない男の家に転がり込むわけでしょ。明治のお嬢様にしてみたら自殺行為だもんね。


結局、意を決した晶子が家を捨てて上京したのは明治34年6月6日。「狂ひの子 われに焔(ほのお)の 翅(はね)かろき 百三十里 あわただしの旅」この晶子の勇気ある行動に応えた寛の歌が「武蔵野に とる手たよげの 草月夜(くさづきよ) かくてもつよく 京を出できや」

なんでも歌にしちゃうわけね。わかりやすいっていうか、開けっぴろげっていうか…。



ところが晶子が上京してみると、そこは畑の中にある借家で、口うるさい婆やまでいる。しかも毎日のように借金の督促は来るわで、お嬢様育ちの晶子にとってはまるで未体験の世界だった。

晶子さん後悔したかもね。でも、恋する女って結構強いのよね。



そんな中、売り上げは低迷していたけど、寛は歯を食いしばって『明星』の発行を続けていた。12号が発刊された6月に、新詩社の茶話会が催されて、寛は初めて同人たちに晶子を紹介する。

その頃の晶子さん、どんな感じだったのかな。



実は晶子の存在を誰も知らされていなかったらしい。だから素直な印象が「変な女がきた」。


あはは。ひど〜い!



婆やの印象はもっと凄いよ。「髪をふり乱した、その髪の間から眼が光っている、一見、おばけのような女」。まぁ、晶子も相当な決心で上京してきたから、かなりテンパっていたのかもね。でも、そういった周囲の偏見を実力で黙らせる歌集がこの年の8月に刊行される。それが、名作として名高い『みだれ髪』だ。

←渋谷・道玄坂付近にある東京新詩社の碑

ページトップへ戻る