君の罪の子 我も罪の子

第2回 愛・理性・勇気
〜与謝野晶子伝説 その2

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:杉並なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

いじめと男装?の子供時代

妻をめとらば才たけて〜♪ みめ美わしく情けある〜♪


蔵三さん、昼間から酔っぱらってるんですか? それに何の歌?


まだ2合しか飲んでないから、じぇんじぇん酔っぱらってないよ。キミはこの歌をしらんのか? 与謝野鉄幹の『人を恋いうる歌』だ。鉄幹の作品では最も有名なんじゃないかな。ちなみに『妻を恋うる歌』はフランク永井ね。

どっちも知りませんよ。知っていたとしても、蔵三さんが音痴だからわからなかったと思うわ。ところで、その歌の「妻」っていうのは晶子さんのこと?

音痴とは失礼だな。これでもカラオケで軍歌歌うと90点が出るんだぞ。この歌が作られたのは明治30年(1897)だから、残念ながら、まだ志ようさんには出会っていない。

え? 志ようさんって誰?



晶子の本名だ。志ようの読みを晶の字に置き換えてペンネームにしたわけ。結婚前の名前は鳳(ほう)志よう。大久保利通が暗殺された年、明治11年(1878)の12月7日に現在の大阪府堺市に生まれた。

関西の人だったんだ。ってことは、コテコテの関西弁だったのかもね。またイメージ狂うなぁ〜。

関西弁と言っても、晶子の家は、「駿河屋」という、有名な和菓子屋だったからね。吉本新喜劇みたいな関西弁ではなかったと思うよ。

そうか。晶子さんはお嬢様育ちだったのね。


「駿河屋」の本店は紀州にあって、昌子の祖父か曾祖父の代にのれん分けしてもらったらしい。しかし、明治16年(1883)に出版された『豪商案内図』にも掲載されているから、晶子の父である鳳宗七の代には豪商と目されていたようだね。

ふ〜ん。堺って昔から商業の町として有名よね。その堺で「豪商」って呼ばれるくらいだから、お父さんはかなりのやり手だったのね。

ところがそうでもないんだ。実際に店を切り盛りしていたのは、晶子の祖母の静と、母の津祢だったらしい。宗七は和菓子屋の店頭に洋酒を並べるような趣味人で、俳句や絵が大好き。晶子が後に歌人として大成するのは、この父の趣味が影響しているようだな。

晶子さんが生まれたのが明治11年でしょ。まだ洋酒なんて珍しい時代じゃなかったの?

大阪にせよ堺にせよ、江戸時代から日本経済の中心地だろ。人口の大半が商人や職人で、武士はほとんど住んでいなかった。だから、文明開化を受け入れるスピードも速かったし、貿易の再開にも抵抗はなかった。そういう意味では、横浜や神戸と同様、明治初期にはすでにハイカラな町だったと思うよ。

晶子さんに兄弟はいなかったの?



いたよ。宗七の前妻の娘が輝(てる)と奈(な)。長兄は後に電気工学博士として東大教授になった秀太郎。この人は「テブナンの定理」を同時期に発見した人としても有名だ。しかも、息子も孫も東大教授というエリート家系なんだ。で、次兄の玉三郎は昌子が生まれる前に早世。「君死にたまふことなかれ」で有名な弟が籌三郎(ちゅうざぶろう)。

じゃあ、弟が生まれるまでは女系家族だったのね。


宗七はそのことをひどく気に病んでいたらしい。しかも、秀太郎が虚弱体質だったからなおさらだ。だから、玉三郎が死んだあとは男の子を切望していたらしいんだ。しかし、生まれたのは女の子。宗七は絶望の余り一週間も家出したらしい。

え〜、ちょっとひどくない〜。



それで晶子は母方の叔母に乳母と一緒に預けられた。ところがこの乳母がひんぱんに晶子を折檻したらしい。だから、弟が生まれるまで幼い晶子はひたすら耐えるしかなかった。何しろ、泣いたら余計に折檻されるから、泣くこともできなかったというからね。

弟が生まれたから、お父さんの機嫌も治ったと言うことかぁ。


それでも家に戻った晶子に宗七が声をかけるのは年に数回。母親も夫に気兼ねして晶子に男の子のような格好をさせていた。このことを晶子は歌に詠んでいる。「十二まで 男姿を してありし われとは君に 知らせずもがな」

晶子さん、かわいそう。でも、そういう生い立ちが、明治のフェミニストを生んだっていうのは、わかるような気がするなぁ。

←少女時代の晶子。"男装"ではないので、12歳以降の写真と思われる
『住吉・堺豪商案内図』に紹介された駿河屋→

ページトップへ戻る